posted on Apr 23, 2000
updated on Apr 1, 2005
*** 昔はこんなのでもOKでした ***
ラルトRT2@タミヤGP’82
フォーミュラクラス仕様
(1982年8月、当時高校1年生だったふぇら〜り伊藤が、遠路はるばる広島県の片田舎から
静岡で開催された第18回タミヤGPにフォーミュラ・フレッシュマンクラスで参加し、2位入賞した仕様です。
(写真は1999年10月に撮影)
レース当日は雨だったため、リヤタイヤは現地で地元参加者の見よう見真似で急ごしらえしたグルーブドタイヤの
ままになっています。当時はスペアタイヤを買うカネもなかったし、このレースをもってRC活動を全面休止したため、
今でも当時のタイヤが付いたままです。
シャシーをご覧になった方は、「こんなんでタミヤGPオッケーだったの? マジかよ〜!?」とびっくりされることでしょう。
しかしこれが、OKだったんですね〜。
メインシャシーこそタミヤ製ですが、
シャシーロ−ルの発生軸を変えるために形状とメカプレートのマウント位置を変更していますし、
バンパーはカイダック製(たぶんカンナムローラ用から切り出し)、ボディマウントも
フロントがAYK(青柳金属工業、当時一世を風靡していた純レース用シャシーメーカー)
のアフター部品から、リヤはAYK・RX−2000シャシーから切り出したもの。
サーボセーバー、サーボホルダー、バッテリーホルダー、リンケージ類もAYKなど他社製品をふんだんに(笑)使用していました。ビス・ナットなんて、
露骨にAYKのアルミ製を多用してますもんね。ひどいもんだ(爆笑)。
また、RC電源は動力用6Vバッテリ−から共用とし、重量増加を抑えていました。
このマシンで自分が心血を注いだ最大のポイントは、
F-2モデルの「軽量コンパクト」という特徴を生かしながら、
ステアリング特性を大幅に改善する点にありました。そのために、AYK風の3点支持式メカデッキを自作しバッテリー位置を大きく前進
させ、前後の重量配分を4.5:5.5程度に変更し、フロントのトレッド拡大とメカニカルグリップ向上、車高下げを狙って、
ステアリングブロックを取りつけるサスアーム風のサブフレームを自作しました。
フロントサブフレームは、もともとタミヤのF-2モデルはトレッドが狭過ぎてカッコ悪かったし、
アンダーステアが強過ぎたので、
規定いっぱいの幅を得るために自作したのです。でも、今考えるとちょっとデザインといい、
加工精度といい(何せ手で切り出し)、最低レベルですね〜、とは思うのですが。
まあ、当時、与えられた条件が電動ボール盤とハンドドリルとヤスリ、というものでしたから、精一杯やった結果ではあるのですが。
このフロントサブフレーム、実は、練習時のクラッシュで片側にちょっとクラックが入ってしまったのですが、
換えもないのでそのまま出場しました。今でもそのまんまです。
このほかにも、当時から気になっていた「欠陥」としては、メカプレートのフロント側のネジ穴が
オリジナルのメカプレート取り付け穴と3mmくらいしかズレておらず、ちょっとひどくクラッシュしたらすぐネジ穴が割れそうだったこと。
幸いにも、大きなクラッシュは経験せず、今も走行可能な状態を保っていますが・・・。
ともあれ、モディファイの結果は、非常に良好で、狙いどおりの「勝てる」マシンになりました。
ただ、レース当日は雨だったのと、パワーソース系のノウハウ不足で地元勢の後塵を浴びる結果になったのはいささか残念でした。
優勝者は確かF1ボディを使っていたはずですが、シャシー性能では絶対負けてなかったと今でも信じています。まあ真相は分かりませんが。
なお、写真のスピードコントローラーだけは、練習用に使っていたAYK製に戻されています。
(ボディ高さを落とすため、サイドポンツーンに干渉するアルミヒートシンク部分を削り落としてあります)
タミヤGP参加時のみ、規定に合わせてF-2用無段変速スイッチを使用するようにメカデッキを設計していました。
また、カラーリングは、当時、ジェフ・リースのドライブでブリヂストンタイヤを履いて破竹の連勝を続けていた
ラルト・ホンダRH2のカラーリングを模しています。サイドポンツーンのラルトのロゴは手書きです。田舎で
資材が非常に限られていたので大変苦労しました。ホントはホンダF-2のボディからホンダエンジンを
移植したかったのですが、これまたおカネがなくて・・・。
でも、最近、ようやく念願のホンダF-2ボディを入手したので、当時買い置きしていた
ラルトのスペアボディやらホンダF1関係のステッカーなんぞを組み合わせ、いつの日か
「完全なるラルトホンダ」を完成させたいと思ったりなんたりしております。。。蛇足ですが。
なお、見慣れないプロポが映っていますが、これは当時、京商がごく一時期、主にエンジンカー向けとして
発売していた「アストロレーシング」という
セパレート式プロポです。
サーボはボールベアリング支持・コアレスモーター仕様・防滴仕様と贅沢なスペックを盛り込んでいたほか、
送信機もATV用ボリュームツマミ、電圧計に加えて電波の出力計が付くなど、
当時の最高級を目指した作りでした。
特筆すべきはスティックで、バネが非常に軽いもののスムーズに動き、
結果的に落ちつきのあるしっとりした操作感を実現していました。
スティックの短かさと相まって長時間の操作も非常にラクで、
本機と出会ってスティックプロポの操作感について考え方が180度変わったくらいです。
実はこれには「後日談」があります。
2002年10月の幕張での「全日本ホビーショー」でサンワブースに立ち寄った際のことです。スティックプロポのタッチについて、開発の方に、何気なくアストロレーシングを引き合いに出したところ、「アレはウチがOEMで作ったモノです」とアッサリ切り返されちゃったのです。そんなことは一切知らなかったのでびっくり仰天でした。「エグゼス」の絶妙な操作感にも合点がいった次第です。
ただ、アストロレーシングは、筐体の素材感がただのスチロール樹脂
(どう見てもABSではない)で安っぽく、
実際にも強度が低くて舵角やサーボリバース調整用の裏ブタのタッピングがすぐネジ切れてしまうという
トラブルがあったほか、受信機が大きく重く
(55g程度と、サイズ、重さとも当時のフタバ製の1.5倍はあった)、
短縮アンテナ採用のせいか
電波感度もヒジョ〜に悪かったため、京商ワークスでなければ誰も使ってなかったみたいです。
いったい何台が現存するのかも分からないくらいの「幻の名機」というか「珍プロポ」になってしまいました。
前後してKOの初代EX-1プロポが登場したので、多くの電動RCユーザーはそちらに流れてしまいましたしね。
ともあれ、昔はこんなマシンでもタミヤGPでは受け入れてくれたのでした。今となっては懐かしい思い出・・・。
当時は、「こんなレギュじゃ全然イコールコンディションにならんやんけー、カネ持ちの大人が有利やんけ」と
憤懣(ふんまん)やるかたなしだったのですが、時代は変わってワンメイクに近い今でも、結局は「TRFチューン」なる
「大人しか買えないマシン」でないと勝負にならない構造は変わってないような気が・・・。
この辺、何とかなりませんかねぇ。タミヤGPには、もっと「お手軽感」を持って欲しいものです。
全日本の予選大会は、無作為にあてがわれた「タミヤが貸し出すQDマシン(バッテリー充電済み)」で争うとかすると、
お手軽かつハマりそうですが(爆笑)。どんなもんでしょう?
<この頁おわり>
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